本当に「ひそかに続いているこのブログ」ですよねー。
何気なく書き、何気なく見て、何気なーく続くのが一番。
新しい機能とかも追加されているようで、でも久し振りに書いてみようと思った今
ログイン方法は覚えているあたり自分ナイス(*゚.゚)ゞ
ところで
やはり久し振りに書くことといったら近状報告でしょか?
わしは相変わらず元気に生活しておりますよ。
みな就職されましたか?
みなは立派になっていそうですね、応援しています。ま、それなりにな(  ̄っ ̄)笑
今日は、お昼はハンバーグになりそうなので
これから大根おろしをすってきます。(寂)
とりあえず、結婚したら教えてくれよな。(ノ´_`)ノ ⌒(呪)
ポニョってよいの?
みたひとー
やぁやぁわしさん、たまには昔の外国馬に目を向けて見ませんか?
ってことで今回の今日サラはこれ。
マンノウォー(Man o'War 1917~1947)
全米史上最強との呼び声高い伝説的名馬。
当初は「マイマンノウォー(私の軍艦)」と名付けられたが、手違いで「マンノウォー(軍艦)」になってしまった。また、ビッグレッドという愛称も持っていた。
マンノウォーが生まれた1917年は、第1次世界大戦の真っ只中で、アメリカ競馬の大家で生産者のオーガスト・ベルモント氏が戦争に参加した為、所有権はサムエル・D・リドル氏へと移った。
この時、5000ドル(今にして50万ちょい)という格安の値段で落札された。
競走馬としてデビューすると、初戦を6馬身差で圧勝、破竹の勢いで6連勝を飾る。このまま7連勝を狙いたい所であったが、サンフォードSで番狂わせの意味を持つアップセットの前に2着。これが生涯唯一の敗戦となった(アップセットがハンデを貰っていた事もあるのだが、アップセットが弱い馬という訳では無い)。
その後のグランドユニオンホテルSでアップセットにリベンジを果たし、またもや怒涛の連勝街道を突き進む。
もうこの頃には新聞紙一面に愛称であるビッグレッドの名が載るほど有名になっていた。
その圧倒的な強さにもはやマンノウォーに敵う馬はおらず、ローレンスレアリゼーションSはフードウィンク1頭だけ、つまり2頭立てのレースとなり、ここで伝説となる「100馬身差」の勝利を挙げている(厳密には100馬身差かどうかは分からないが、あまりにもフードウィンクとの差が凄すぎたための表現だと言われている)。
しかしポトマックHで脚を痛めてしまったため、マンノウォーに屈腱炎の兆しが見え始めた。これを見たルイ・フューステル調教師は、マンノウォーをあと1レースだけ使う事を決めた。その最後のレースの内容は、古馬最強と言われていた、今で言う「3冠馬」のサーバートンに勝つ事であった。
そしてサーバートンとの対決となったケニルワースGC。観客は皆、マンノウォーとサーバートンの壮絶な叩き合いになるだろうと期待していたが、その期待は裏切られる。
「マンノウォーが7馬身差でコースレコードを叩き出しサーバートンに圧勝」したのである。
こうしてマンノウォーは輝かしく、競走馬を引退したのであった。
種牡馬になったマンノウォーは、リドル氏の意向により種付け数が制限されたものの、三冠馬ウォーアドミラル、種牡馬として大成功したウォーレリックを世に送り出した。
1943年に種牡馬を引退、1947年に死去。
マンノウォーが競馬界に与えた衝撃は計り知れず、今日まで「マンノウォー系」として血筋が続いている。
戦績21戦20勝。
父:フェアプレイ(Fair Play) 母:マフバー(Mahubah) 母の父:ロックサンド(Rock Sand)
主な産駒:
ウォーアドミラル(米三冠)
クライドヴァンデュセン(ケンタッキーダービー)
ウォーレリック
次回はミスターシービーかトウショウボーイかナリタブライアンの予定です。
7月になりましたな~( ̄□ ̄;)!!
はえー!
みな元気にお過ごしかなっ。
なんだかんだ言って更新量は減ってしまってはいるが、心配ないこのブログヽ(゚◇゚ )ノ
誰かしら更新するし、ちゃんとコメントもくれるからね~☆
みな、元気に近状報告をせよ。
祭りとか花火大会とか行きたいなぁ~
何ぃいいいーー
就活とな…。
なにすばらしいことしてんですかいい!すーげー…
わしは相変わらず就職とは無縁で、アルバイトすら無縁です…。
就活かっちょいいねっ、嫌な奴とかいるとおもうが若者、頑張ってねっ!
と、わしも久し振りに書き込んでみやした。
元気すぎてまいっちゃうぜー。痛
おなじ年の友達が次々結婚していき(それも皆「でき婚」ですよ、ふふ…まーったく、なーにしてんのかねぇ)
ちょっと焦りつつ、いや!この年で結婚って方が頭沸いてんだ!!とかおもって
自分にフォローしてるわしです、ども。ども。ノシ
離婚しろ。←酷。
どんどんひきこもりが激しくなってます。
たぶん、絵描きさん、うんちくさんとくらべてもダントツでわしがひきこもりキングなのでは…と思うほど。
だって就職活動に、免許取得っしょ?(あ、絵描きさん免許取得おめでとうですーvvどっかカッさらってくださいーvvあの世はイヤです)
三人で同窓会とかしようか。プ。
お酒とか飲まれますの?
なにか変わりはありますかね~元気ですか~
でも、結局みな面倒くさがりだから(笑)、出てきてはくれないのだろうがな!
またくるぜ!兄貴!
今日サラ、4回目の更新です。今回は狂馬、カブラヤオー。諸事情により長文です。
カブラヤオー(1972~2003)
1974年、11月10日にデビュー。1回目の新馬戦では惜しくも2着となったが、2回目から連勝街道を突き進んだ。
当初生まれたばかりの頃は全然見栄えのしない体格で、早くも駄馬のレッテルを貼り付けられた。その評価はかなり酷く、300万という安値に加えどこの厩舎もカブラヤオーを預かろうとしなかった程である。
しかしようやく入厩が決まるも、いざ調教となると動きは鈍重で、他の馬が目の前に居たり近くにいると異様に怖がって逃げようとし、この時点でカブラヤオーには誰も期待していなかった。
が、しかし。
デビュー戦ではその期待されていなかった馬が着差アタマで2着という好走をし、評価は徐々に上がっていく事となった。
続くカブラヤオーにとって3回目のレースとなったひいらぎ賞では、8番人気であるにもかかわらず6馬身差という差で圧勝。この走りに誰もが驚いた。
そして5回目のレースとなった東京4歳ステークスでは当時の伝説級牝馬、「テスコガビー」との対決がついに実現。色々な思惑が交錯しつつも、テスコガビーにクビ差で勝利し、一躍その名は轟いた。
その後もカブラヤオーは自身の力を遺憾なく発揮した。後に狂気の逃げ馬とまで言われるハイペースで日本ダービーを勝利した(最後の直線はさすがに堪えたが、あの状況で二の足を使うという異質の走りを見せた)。
そんな彼にも唯一の失敗があった。患った屈腱炎も癒え、復帰後の2戦目でゲートに頭をぶつけて脳震盪を起こし、この時ばかりはさすがに11着になってしまった。だがここまでで9連勝という大功を上げており、この記録は未だにレコードとして存続している。
ちなみに、レース中にカブラヤオーと競り合ったレイクスプリンターはカブラヤオーのハイペースについていけず、レース後に重度の故障を起こし安楽死処分という事態になってしまっている。この事からカブラヤオーがどれだけ異常な馬であるかが見て取れる。
ではカブラヤオーは何故こんな走りが出来たのかというと、その正体はカブラヤオーが持っていた馬に対する恐怖心であった。元々カブラヤオーの血統はパワフルさがあるのだが、その長所が存分に引き出されたのは他の馬に近寄られたくないがための臆病な性格にあったと言える。
戦績13戦11勝。
父:ファラモンド 母:カブラヤ 母の父:ダラノーア
主な産駒:
ミヤマポピー(エリザベス女王杯)
マイネルキャッスル
シオフネ
次回は「馬についてあれこれ」の予定です。
さて、カブラヤオーの前に三大始祖について云々。
現在のほぼ全ての競走馬は、可能な限り父系で辿って言った場合、三頭の馬のいずれかにたどり着きます。
その三頭が
バイアリーターク(1679~1705)
ゴドルフィンアラビアン(1724~1753)
になります。しっかしまぁ生年が凄いですね、数百年前です。こいつらが生まれたときその時何が起こっていたかと言うと
1679年:越後高田藩でお家騒動が勃発。
1700年:スペイン国王、カルロス2世死去。
1724年:岸和田藩主、岡部長泰死去。
更にこの三頭の馬主はそれぞれ
バイアリーターク:イギリス第6近衛竜騎兵隊所属バイアリー大尉
ダーレイアラビアン:英国領事トーマス・ダーレイ
ゴドルフィンアラビアン:ゴドルフィン伯爵
という次元の違う人達ばかりです。さすがですね。
更にバイアリータークは大尉殿がトルコ軍から奪って入手したとか、ダーレイアラビアンは元の所有者であったシェイクさんから、ダーレイが奪い取ったとか、ゴドルフィンアラビアンに至っては生まれた年代すらあやふやで、あんまよう分からんという、これまた次元の違う話です。
まぁ、よーするにこっから今のような競馬の歴史が始まったってわけなのかもしれません。